ここのところハーフ・ビルドについて書いている。
というか・・・書きながら自分自身の整理をしている。
庭は目的にもよるが、家のように「完成」させなくても良いと思う。
家の場合、屋根をつけねば雨が漏り、棚をつけねば、整理が出来ず、テーブルがなければ食事が出来ない。
建築家の方から見れば、こうした実際的な生活というものを前提とするため、ボチボチとかダラダラと作り続けることが出来ない。
ある建築家の方は、この点をついて「実に羨ましい」と私たちに言われたことがある。
一方、庭は、実際的な生活に関わっている点で言えば、物干しくらいかなと思う。
新築の家を建てられ、申し訳程度にフェンスを施し、駐車場にコンクリートを入れ、そのまま・・・というお宅を結構散見する。
実際、これでも毎日の生活にはあまり影響がないとも言える。
土面のまま放置すれば、草が生えるので、このことくらいが骨が折れるというところ。
ただ、この事実は、残念ながら、「庭」というものが置かれている「現在」を照射しているようにも思う。
そこに必要とされている暮らしがないのだ。
ありきたりな事実なのだけど・・・結構毎回このことを考えるとショックを受けて眩暈がする。
庭は「鑑賞物」としての面や憩いや安らぎというヒーリングサロンばりの部分ばかりが、喧伝されている。庭を作りたいというお客さんも、ガーデンスタイルブックのようなものを見て「庭」を考えられる傾向が強い。
建築がバウハウス以来の合理性で突き進む中で、箱のようなマンションで人間の暮らしが十分事足りるということになったし、疑問も感じなくなった。
実は、私もそう思っている面がある。
庭が欲しけりゃ大型モニターに名庭を映していればいいのかも知れない。
SF作家のP・K・ディックが荒廃した火星で暮す地球人が、パーキパッドと呼ばれるリカちゃんハウスのごときお人形で地球の暮らしを再現して愉しむという風景を書いていたけど、案外遠い話ではないかも知れない。
「自然との共生」といいながら、人間は自然を支配したい。
自然を駆逐し、土面を固め、草を排除し、排水溝を設け、川を不要とする。
その上で、人間世界に植物を「寄生」させる。・・・それが庭だとも言える。
さらに、今はそれをバーチャルにPCで再現したり、CGで描き出す力もある。
こういうことを書くと、毎日植物の世話をしている人に「ホホッ」と笑われる気がする。
手間をかけないことを「合理性」と呼ぶなら、犬を飼うことも、虫や魚を飼うことも、植物を育てることも全部逆行しているではないか?と
野菜をプランターに植えて感じることは、その劇的な変化。
たった3ヶ月で発芽し、成長し、収穫まで到る。テレビドラマのワンクールでちゃんとストーリーが成り立つ。
しかも食べれる。(笑)
一方、その間に随分不都合なことも起こる。虫・草・菌・水・・・
役に立つか?手間がかからないか?で突き進む私たちの消費生活だけでは、味わえぬ感覚。
なんなだろう?これ・・・・・・。
パーキパッドで十分と思っていることに心が固くなっていることを感じる。
私は中国的でないから古代いにしえ(過去)の世界に「理想」がある(未来でなく)とは考えないが、
自身の子供時代に比べても、随分手触りのない生活になった。その分随分便利にもなった。
このバランスの失調した感覚が皮膚に残る。
そのことから振り返れば、シンプルな答えがひとつみつかる。
1 庭とまず考えずに「敷地」と考える。家を建てて余った場所とか余さないといけない場所とする
2 そこに「場所」があるので、何をしたいのかをまず考える。庭を作ってもいいし、別に「庭」にならずとも良い。コーヒーを飲むチェアをひとつ置いてもいいし、畑を少々でも構わない。
3 さらに、以前に書いたが、庭にはブラックボックスがないので「手作り」できる。
4 すると、ハンドメイドで作業できる「仕事」がそこに生まれる。
私たちが毎日する作業の中で、ハンドメイドで味わえる感覚というのは、数少なくなっているように思う。家も買う、車も買う、洗濯物はクリーニング、食料も買う・殆ど買ってすませている・・・・
そう考えると、庭作りは、パン焼きや料理、陶芸・・・そういいったものと同列のことを求めているのではないか?と思う。
本当は、ハーフビルドに必要なことは、「ハンドメイド感覚」を手に入れることなのではないかと・・
ここで提案
「ハーフ・セルフ・ビルドの最も根底は、「手の復権」である」と私は思う。
それは、茶器の楽茶碗を見ていてある日思いつく。
くどく続く